JR東労働組合員7名が10ヶ月以上身柄拘束され続ける不当

広田 研二

 02年11月1日、警視庁公安部公安二課は、JR浦和電車区(埼玉県)の運転士ら7名(1名は退職者)を強要容疑で逮捕した。7名は、JR東労組(東日本旅客鉄道労働組合)の組合員で、逮捕の発端は元組合員Aからの被害届だった。
 02年11月22日、7名は東京地裁に起訴され、今年2月25日から公判が始まった。これまで7回の公判で、なんと、被害届を書いたのはA本人ではなく、公安だったという事実が明るみに出た。しかも、Aの証言によれば、02年1月末に、公安の刑事2名がわざわざA宅を訪れてのことだという。真相はわからないが、公安の訪間がなければAが被害届を出すことはなかった、と考えても不自然ではない。

地裁で決定された保釈が、高裁で覆された本当の理由

 さらに公安の警部の証言から、01年12月21日には、公安の捜査が始まっていたことがわかった。
 03年8月1日になって、東京地裁はようやく保釈を決定した。ところが8月4日、「証拠隠滅などのおそれがある」とする検察側の主張が認められ、東京高裁によって、保釈決定が覆されてしまった。
 逮捕当日、公安はJR東労組の関係事務所や個人宅など64カ所を家宅捜索し、1093点の証拠品を押収している。この期に及んで証拠隠滅を持ち出すのなら、いつでも発動できる家宅捜索でもすればすむ話だ。
 だがこれは、あくまでも表向きの理由であることが、勾留が長期化するにつれて明らかになってきた。起訴後も勾留され続ける本当の理由は、余罪の取調べが目的だということだ。これこそまさしく、別件逮捕である。
 それでは、Aと7名の間には、一体どのようなことがあったのだろうか?

"脱退"と"退職"が『過激派』による組織的犯罪?

 Aは、01年2月28日にJR東労組を脱退し、7月31日にはJR東日本を退職している。脱退から約1年、退職から半年以上が過ぎた02年2月11日、Aは、JR東労組の脱退とJR東日本の退職を強要されたとして警察に被害届を提出した。
 Aは、92年にJR東日本に採用され、JR東労組に加入した。当初から、JR東労組と対立する別労組と親交があったが、浦和電車区へ配転になってからは、さらに親交を深めていった。
 00年12月ごろからは、JR東労組の脱退を表明しては撤回するという状態だった。A自身も悩んだに違いない。しかし、所属する労組の方針に異を唱えるだけでなく、別労組のキャンプにも参加するようになった。別労組のキャンプには、JR東労組を分断するため、若手組合員を切り崩そうという意図があった。対立関係を知っていたAは、その後、その別労組からの指示によって、虚偽を取り繕わなければならなくなっていった。
 結局Aは、JR東労組だけではなくJR東日本にも居づらくなって退職した。こうした経緯から、強要の容疑で7名が逮捕されたわけだが、検察は、「「過激派」による組織的犯罪」として7名を起訴したかったようだ。
 今回の事件は、埼玉県で発生したわけだが、事件の捜査は、埼玉県警ではなく警視庁が指揮した。公安が乗り込んだ理由は明白だ。JR東労組、その上部団体であるJR総連(全日本鉄道労働組合総連合会)と「過激派」とを表裏]体とみなしているからだ。
 JR各社は、いうまでもなく、国鉄の分割民営化によって生まれた鉄道会社だ。国鉄だった当時、知らない者はいないといってもいいほど国労(国鉄労働組合)と動労(動力車労働組合)は有名だった。かつての動労に、「過激派」幹部やシンパがいたことも知られている。動労を母体としてJR総連が結成されたことから、「過激派」の影響力はJR総連に引き継がれたとも言われている。
 JR総連の公式見解では、「過激派」とは一切無関係ということになっているが、公安は、「過激派」と一体とみなしてJR総連の監視内偵を続けてきた。
 実際のところは当事者でなければわからない。しかし、たとえ「過激派」だとしても、「過激派」に属したり、支持したりするだけで犯罪者にされるわけではない。「過激派」であろうとなかろうと、犯罪の事実関係があるかどうかの問題なのだ。

冤罪の温床となってきた代用監獄での長期勾留

 公安は、Aには何回にもわたって事情聴取をしてきたが、7名に対しては1回の事情聴取もしなかった。捜査過程からも、「過激派」を炙り出すことに公安の関心があったことは間違いない。
 検察は強要罪で7名を起訴した。起訴状、冒頭陳述でも、一切「過激派」との関係に触れてはいない。ところが、突如、保釈を認めない意見書で、「過激派」の関与、組織的犯罪と書き立てた。検察は、「過激派」との関係を自白させるまでは、7名を保釈させるわけにはいかないようだ。警察や検察だけではなく、マスコミでさえ、「過激派」であれば長期勾留・別件勾留もやむなしと思い込みがちだ。しかし、たとえ「過激派」だとしても、10カ月以上に及ぶ別件勾留が許されるわけではない。
 代用監獄は、1908年に拘置所不足を補うための暫定的監獄として制度化されて発足した。しかし、警察や検察の都合で、いつの間にか常設監獄になってしまった。被告人(被疑者)を警察署内に拘禁しておけば、警察や検察は、いつでも自由に取調べができるというわけだ。
 ところが、被告人にとっては、弁護士の目も届かない密室に自分自身が人質にされるわけで、警察のシナリオどおりに虚偽の自白をさせられてしまう被疑者も少なくなかった。だからこそ、日本弁護士連合会も、冤罪の温床となる代用監獄制度の即時廃止を主張してきた。

『過激派』を認めるまで、余罪が見つかるまで、勾留は続くのか

 「警察白書」によれば、01年度中に勾留された被疑者12万1503人のうち、20日を超えて勾留された者は190人(0.16%)だった。当然のことながら、被疑者の99.84%は、20日以内に釈放または保釈されている。
 20日以上の勾留にしても、無期懲役以上の最高刑に当たる犯罪の被疑者がほとんどだ。強要罪は、刑法223条により3年以下の懲役とされている。7名のように、暴行などの余罪もない強要容疑だけで、10カ月以上も身柄拘束される例は極めて稀だ。
 しかし、長期勾留という事実だけが異常なわけではない。いつになっても、どこのメディアも、その異常さを話題にしない状況もまた異常といえよう。起訴後の余罪の取調べについては、刑法学者からも、その限界を明確にすべきだという声が上がっている。
 「起訴後勾留中に余罪の取調べを受けている被告人は、代用監獄に勾留されて、事実上は追起訴、余罪の捜査が終了するまで、すなわち自白するまでという、事実上期限の区切りがない、不定期かつ長期の勾留の下に置かれて、家族などとの面会もなく多くの場合は実質的な弁護人の援助もなしに、孤立した拘禁状態のもとで取調べを受けているのである。しかも場合によっては、被疑事実が何かを知らないままに、自己の行動、アリバイの有無の取調べを受けさせられているのである。
 このような状況に置かれた被告人の立場は、出口の見えない長く暗いトンネルの中に置かれたようなものであって、出口を与えられるためには捜査官に追随し自白もせざるを得ないような、強制的な雰囲気のもとに置かれたものである。被告人に対し余罪の取調べが、おこなわれるにはそれなりの理由があるとはいえ、その限界が論じられなければならない」(久岡康成「起訴後勾留中の被告人に対する余罪の取調べについて」(「立命館法学」2000年3・4号下巻))
 別件逮捕・別件勾留が重大事件の解決に結び付いたこともあった。しかし、令状によって逮捕された被疑者が、令状に記載された本件以外の別件のために勾留され、取り調べられるとしたら、令状そのものの意味はなくなってしまうに違いない。
 被告人7名は、現在は東京拘置所に身柄を拘束されているが、「余罪の取調べ」を受けるために勾留されていることに変わりはない。これまでのところ、公安や検察には、強要以外の犯罪事実を立証する決め手はなさそうだ。
 7名の容疑が強要罪だけであるならば、すでに10カ月を超えた身柄拘束が人権侵害であることはいうまでもない。

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